片想い礼賛
 <からだを許さない恋愛は、あるいはカタオモイは、愛されるにふさわしい人間になる努力をするんだよね。だから成長するし、美しくなる>という≪片想い礼賛≫をテーマに編集。投稿歓迎。
エナージーフローの間に間に・・・
 <過去を抱いているから苦しいのだ>・・・苦しいほどの過去を抱かずに生きていれるでしょうか・・・?禅の高層は言った、「私はとっくに手放しているぞ」。とてもシンプルですね。けれどシンプルになるのは難しいですよ。禅の高僧だからできること。愚仁にできることじゃない。愚仁は濁りに濁った川の下流で生きています。滝に撃たれて欲念を払う修業なんてとうていできません。水清ければ魚棲まず。若い弟子さんは山上の清流に生きていたんでしょうね。霞を喰って生きている間はいいのでしょうけれど、下界に降りたら女人に出会わぬわけがありません。人間だもの、忽然と欲望が湧出します。人助けで抱いた女人でもあの肌の柔らかさ、温かさは忘れられるものではありません。高僧はしめたとばかりその女人の肌を楽しんだのでした。思う存分味わい尽くしたのでした。至高の時を満喫できたのです。もうその時そのものになっていたのです。時の中で燃焼した高僧がいた。だから高僧なんですよね。まるで一休さんのように・・・。
 愛には肉体の目合いと魂の目合いがあるんですよね。高僧になるともう魂の目合いができるんでしょう。魂の目合いは真交いです。真の交わり合いだから本物の愛です。かってそんな愛を愚仁はスペースラブと呼んでいました。親鸞さんは性欲に悩み苦しんで呻吟していましたがある夜夢を見たんですね。美しい女人と寝てしまった。至高の時の後でその女人が聖徳太子だったことがわかります。親鸞さんは目合いは自然の営みで、性はビューティフルであることを悟ったようです。夢で真交いを知ったんですね。おもしろいと思いませんか・・・。
 木乃実さんが「手放したもの」は何だったのでしょうか・・・。手放しは忘却じゃなく、放棄じゃなく、価値の転換、意識革命なんだと思います。禅の高僧が「私はとっくに手放しているぞ」といったのも、親鸞さんが妻帯、生臭を容認できたのも価値の転換なんでしょう。「手放す」ことは共生することです。所有しないことです。自在に出会い、自在に別れる。会者定離。空即是色です。別れた人と会うこともできる、死んだ人とだって会うことができる、そんな時空があるんです。人間が持っているもう一つの時空。魂の時空は自由自在です。人は誰でも愛し合って生きています。無所有、無拘束の、あなたは私であり、私はあなたであるような、共鳴・共振のいのちの世界があるんですね。エナージーフローに載っていけば、エナージーのハーモニー、重なり合い、交わり合い、響き合う世界が創りだされていくのでしょうね。

 『木乃実ワンダーランド』へどうぞ!
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